もっと早くに言ってくれればよかったのに、なんて恨み言を、伊織くんは笑って流してしまった。
ライダーたちの利用が減って、カフェをレオン自身が切り盛りすることがなくなって久しい。夜も遅い時間にレオンを呼びつけるには申し訳なくて、僕はお手伝いさんたちが軒並み帰ってしまったあとの広い屋敷を歩きだした。
「きみの手料理にありつけたりする感じ?」
「まあ、もてなす側だからね。あんまり期待はしないで」
本当に。日本に帰ってくるなら、もっと早くに言ってほしかった。そうしたら、僕の手料理なんて粗末なものが伊織くんの口に入るなんて事態は避けられたはずだ。それが難しくてもせめて料理の腕を上げるくらいはしておきたかった。
「お酒は?」
「きみはどう?」
「ひとりじゃ飲む気しないんだよね、酔うの苦手で」
「今日はひとりじゃないぜ」
それもそうだ。伊織くんがそばにいて、悪いことなんか起こるはずもない。
戦いが終わって、もうどれくらいになるだろう。伊織くんはひとりでふらりと海外に出てしまって、途上国で人助けやボランティアをしてまわるようになった。
僕にもたまの連絡はもらっていたから、きっとジャスティスライドのみんなにはもっと頻繁に連絡が入っていたことだろう。
だから当然、こちらに顔を出すときには連絡をもらえるものだとばかり思っていたのだけれど……つい一時間前に、彼は突然日本に帰ってきた。今空港にいるんだけど、そっち行ってもいい? なんて電話が第一報だった。
「ハンバーガーとかお肉とか出せたらよかったんだけど」
「それもいいけど、きみの手作りが食べたいんだって」
肉も無いわけではないが、こんな夜遅くにステーキなんか出したって彼も困るだろう。いや、食べるかもしれない。彼からエージェントと呼ばれていたころ、2メートル級の巨大ハンバーガーをジャスティスライド四人で分けて攻略しようなんて言っていたことを思い出す。
どのみち下味もつけられていないし、今回は無しかな。
「みんなに連絡は?」
「まだ!」
「意外だな。僕より真っ先に連絡すると思ってた」
「明日一人ずつ会いに行ってびっくりさせようかなって」
そのサプライズ第一号に僕が選ばれたのは光栄だけど、みんな事前連絡は欲しいと思うよ。
都合がつかなかったらどうするつもりなんだろう、と思ったけれど、伊織くんのことだからきっとどうとでもなるのかもしれない。一応、後で僕から皆にはさりげなく明日の予定を聞いておこうと思う。
酒のつまみになりそうなものとスープにパン、いつもの僕なら伊織くんに出す食事の内容には絶対選ばないような粗末な――シンプルすぎる食事ができあがった。ここは少し寒いから、僕の部屋に戻って食べることにする。
伊織くんは僕のとなりで、氷水にワインボトルを入れたバケツと食器を手に歩いている。
「いまは何してるんだ?」
「相変わらずニートしてるだけだよ、たまに高塔EPのリリース近い案件に単価いくらでヘルプに入るくらいかな」
「それはニートじゃなくてフリーランスって言うんだぞ」
「あはは」
僕のやっていることなんてたかが知れている。これでフリーランスを名乗ると、世間一般のまとも自立できているフリーランスの皆様に申し訳ないことになるだろう。
それでも、伊織くんが僕をちゃんと評価しようとしてくれていることは分かるから、否定しようとは思わない。
「また背、伸びた?」
「ええ、とっくに止まってるって」
「前までは目線同じくらいだった気がするんだけどな」
「四年くらい前に身長差十五センチ達成済みだったろ」
ああ、そうだった。キスしやすい身長差、というやつだ。彼の口からそんな言葉が飛び出てくるのがどうにも受け入れられなくて記憶が飛んでしまっていた。
「え、なになに? どうかしたか?」
「気にしないで……」
このひとは、いつのまにこんなにかっこよくなってしまったんだろう。昔からかっこいい人ではあったけど、まだ眩しさの中にどこか幼さが残っていて、可愛らしさみたいなものがあった。いまは、あの頃の比じゃない。
顔が熱くなる感覚を振り払いながら、一歩先を歩く。僕の部屋だ。もてなされるべき伊織くんの方がなぜかたくさん持ってくれているから、扉は僕が開ける。
パソコンにサーバーラックにモニターにと作業机まわりだけがごちゃついていて、そこ以外にはまるで物がない。それが僕の部屋の様相だ。何も置かれていないテーブルに、女の子らしいクッションのひとつもないシンプルなベッド。今日のように伊織くんが突然やってきても片付けに奔走する必要がないのが利点。それ以上もそれ以下もない。
テーブルの上に食事を並べて、伊織くんは最後に氷バケツのワインを置いた。
「じゃ、かんぱーい!」
「乾杯。改めて、おかえり、伊織くん」
「ん!」
注ぎ合ったワイングラスを呷る。あまりお酒は飲まないけれど、伊織くんと一緒ならなんだってご馳走だ。きっと水でも酔えると思う。
「わ、結構美味しいんだこれ」
「きみが買ったんじゃないのか?」
「買うだけ買って飲まないことが多くて」
ボトルのデザインや名前なんかでつい衝動買いしてしまうのだ。きれいな朱色のワインボトルには、「昇」と筆文字が書かれている。
向かいの伊織くんは、できたてのスープを口にした。
「うっま! 毎日でも飲みたい!」
「作るとこ見てたでしょ。五分もあれば誰でも作れるよ」
「そういうことじゃなくてだな……」
レシピを書いて渡すまでもない。伊織くんに出せたのは本当にありあわせのものばかりだ。
「このローストビーフはレオンさんが?」
「あ、いやそれも僕が。ちょうどSNSで面白い作り方が回ってきたからちょっとやってみたくなって、昨日」
「じゃあおれ今帰ってこれてラッキーだったな!」
ローストビーフを薄くスライスしてバケットに挟んだだけのそれは、伊織くんが見ている前で調理したものだ。とはいえローストビーフは既にできていたもので、そのへんにあったチーズやレタスなどをてきとうに挟んだだけである。しいていえばスープの準備をしているあいだにワインソースをフライパンで作ったくらいか。
感慨深そうにバケットにかぶりついている伊織くんを前に、またグラスを傾ける。贅沢な夜だ。伊織くんを満足にもてなせなかったのは減点ポイントだけれど、それを差し引いても僕は今きっと世界で一番幸せな女だと断言できる。
「ペースはやすぎないか? そんな飲んで大丈夫?」
「大丈夫。ね、それより……伊織くん」
「ん?」
「どうして僕にまっさきに会いに来たの?」
伊織くんの顔が一瞬、強ばった。ああ、やっぱりそうか。おかしいと思ったんだ、伊織くんがジャスティスライドのみんなよりも僕を優先するなんて。
「手が必要なんだよね? できればみんなには言いたくない、ひとりで解決したい問題――カオスイズム残党? それとも回収しそびれたカオストーンが海外に持ち出されてたりする?」
居ずまいをただして僕がひととおり言い終えると、少しの沈黙から――伊織くんが笑い出した。
「え、あの、伊織くん?」
「違うよ。そんなんじゃない。ただきみに会いに来た、それだけ」
「僕ってそんな信用ない? レオン呼んだ方がよかったかな」
「本当に違うんだって」
あの戦いを乗り越えた今の彼が、多少の無茶や無理で死ぬとは思えない。僕たちは、そういう次元にはもう居ない。分かってはいる、けれど。
「あの時、僕たちが勝利をおさめられたのは、奇跡だった。同じ奇跡が他の誰かに……伊織くんと敵対する誰かに起こらないとは限らないじゃない」
「あー……」
彼が席を立って、テーブルの上に身を乗り出した。手招きをされたから、僕も少し乗り上げる形で顔を近付ける。
唇が重ねられた。
「へっ!?」
「好きな子に会うのに、理由なんか野暮だろ」
くら、と視界が回転して、僕は椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。
「あーあ……飲みすぎだって」
伊織くんが僕を抱き起こしてくれたのが、わかる。
「ま、おれが飲ませてるんだけどさ」
きみは笑い上戸だから、笑顔が見たくてつい、ごめんな。そんな言葉が続けられたけれど、きっと伊織くんは勘違いをしている。
僕は、お酒はあんまり好きじゃない。自分の嫌なところ、駄目だった過去、そこからなんの進歩もない今の自分。普段は見て見ぬふりをしているものたちが、酒のせいで蓋のしたから顔を覗かせるのだ。
それが嫌で、だから、僕はお酒は飲まない。伊織くんが一緒でなければ。
「君がいてくれるから、だよ」
伊織くんがそばにいてくれる。それだけのことがどれほど僕を救っているか、伊織くんは分かっていない。
苦手なお酒を楽しめるのも、笑い上戸だと言われるほどだらしなく顔が緩むのも、全部。見つめていたい光がすぐそばにあるからだ。
「はいはい。ベッドいくぞー」
「ん……」
伊織くんの迷惑になるようなことはしたくない気持ちと、昔よりもっと逞しくなったその腕に抱かれていたい気持ちがそれぞれあって、狡い僕はお酒を言い訳に後者の気持ちを優先させた。このまま眠ってしまえば、優しい彼は抱き上げてくれるだろう。
「なあ」
伊織くんが、まるでお姫様を抱くように優しく僕をベッドまで運んでくれる。
「やっぱり、一緒にっていうのは、無理?」
「……君が、望むなら、どこへでも行くよ」
「そっかあ」
おれは、きみの心が欲しいんだけどな、なんて僕に都合の良い言葉が、伊織くん声で囁かれた気がした。
微睡みの中で、身じろぎをするとそばに好きな匂いを見つけた。頬を寄せる。安心できる匂いと、温度。あたたかいそれはとくとくと鼓動を伝えてきていて、こんなに落ち着くものがこの世界にあるんだなあとまた、意識を手放しかけて――ふと、思い当たる。
僕にとって世界で一番落ち着く場所ってどこだ? 安心できる場所ってどこだ? 伊織くんの隣以外にあり得ない。
はっと目を開ける。目の前にはやはりというか伊織くんがいて、狭い僕のベッドの端で添い寝状態だった。
「あ、あわ、あ」
「おはよ。寝ぼけてる?」
いや目はばっちり覚めている。焦燥で。
「あ、ごめんあの、僕なんかもっと壁側に追いやってくれてよかったのに」
なんなら床に落として転がしておいてくれてもよかった。伊織くんが眠っている女相手にそんなことしないのは百も承知だが。先に寝た僕が悪い、全面的に。ていうか眠る前の僕、かなり身勝手なこと考えて伊織くんに運ばせたな。最悪だ。
ベッドのど真ん中で身長百七十の女が寝ていたら、それよりもっと上背のある伊織くんは縮こまって眠るしかなかっただろう。本当に申し訳ないことをした。
「眠れなかったでしょ、ごめんね。僕ばっかり熟睡してたよね」
「いや? おれもちゃんと寝た……寝……うーん」
やっぱり寝れていないんじゃないか。
「寒くなかった? 僕布団ひとりじめしてたんじゃ……」
「きみとくっついて寝てたからぜんぜん」
「ううーん……抱き枕として役に立ったならそれは何よりだけど」
「まあだから寝れてないんだけどな!」
そこまで言われて、ようやく思い至った。彼の昨晩の言い分が正しいなら、彼は困りごとでもなんでもないのに、まっさきに僕に会いに来てくれたのだ。
何を求められていたか、なんて、昔の僕ならすぐに考え付いたはずで。
「あ……えと、本当に、ごめんね。その……伊織くんがよければ、今からでも」
窓の外はもう陽がのぼっている。伊織くんは明るいうちからそういう行為をするのをあまり好まないようなので、きっと断られるだろう。
予想の通り、彼は首を横に振った。
「確かに昨日の夜は大変だった! けど! ヤりたくて会いに来たわけでもないから」
伊織くんの手が、僕の髪を撫でる。そのままするりと輪郭を伝って、親指が頬に触れた。
「おれが望んだら望むだけ、きみはなんでもしてくれるだろ」
「もちろん」
それが人の道に反することでも、僕の生き方を曲げるような話でも。お金でも地位でもそれこそ手料理だってセックスだってなんでも、僕の持ちうるすべてをかけて、彼の望みを叶えたいと思う。
「おれの一番になってほしいって言ったら、きみはそれが嫌でも、頷くんだろ」
「うん」
嫌な話ではあるけれど、もしもそれが伊織くんの本当の望みなら僕に否やは無い。伊織くんの願いを叶えられない方がよっぽど嫌だ。
「それがきみにとって「嫌」じゃなくなるまで、待ちたいんだよおれは」
彼が指折り数えて、名前を挙げていく。カオスイズムと、それに付随する……これまでの僕らが戦ってきた強敵ばかりだ。苦戦したけど、ぜんぶ乗り越えてきた、と彼が笑う。
それから、でもまだ君を救えていない、と続けた。
「で、今はどんな感じかなって様子見に来た」
浮かべられた笑顔は、苦笑交じりだった。
「きみのもてなしに「そういうの」が含まれてなかったってだけで、けっこうな進歩だよ」
「それって……」
「よし! じゃおれ才悟たちに会ってくるな! 一宿一飯さんきゅ」
僕の言葉を敢えて遮って、伊織くんがぐっと伸びをした。ベッドから降りて、椅子の背にかけられていたいつものデニムジャケットを羽織る。今まで何度か買い替えられた、彼のお気に入りのメーカーのものだ。
「あの、伊織くん」
「戻ってきたら、「そういうの」も期待してるから。また明日、な」