すぐ隣にあるものさえ見えないほどの暗闇を、僕は十年来の友達のように思うことがある。
善も悪も公平にすべてを白日のもとに晒す陽の光よりもずっと。
■君と夜
「なんかデジャヴだね」
「いやー、あん時はおれがきみを追っかけたけど、今回はおれが助けられたからなー」
「助けられてないし、伊織くん怪我しちゃってるじゃない」
あのときはカオスワールドで、今回は普通にこちらの世界での山だ。
調査中、カオスイズムの戦闘員を追ってここまで来て――当然伊織くんの方が速いので、僕が追い付いたころには既に伊織くんは戦闘に入っていた――足手まといにしかならない僕は少し離れた場所でその戦闘の様子を見ていた。と、そこで気付く。戦闘員の攻撃パターンの不自然さに。
応戦する伊織くんが気付いているのかいないのか、分からなかった。彼のことだから気付いているだろうと思いながらも、駆け出さずにはいられなかった。そして、攻撃を受け流して少しだけ後退した伊織くんの足元が、がらりと崩れ落ちる。つい反射的に追いかけて手を伸ばしたわけだけど、それでどうにかできるわけもなく、またしても二人で落下した。二度目である。
なんならあのときよりも酷い。変身を解いた伊織くんの白いシャツにはじわりと赤い染みが広がっていて、追いかけて落ちてきた足手まといを庇ったせいで受け身が取れなかったのだろうことが分かる。僕はライダーフォンを放ってきてしまったし、伊織くんのは僕が――おそらく落下の際に伊織くんを下敷きにしたせいで――壊してしまった。助けを呼ぶのは不可能だ。
「本当にごめん。サポートどころか足を引っ張ってるだけだ」
「助けられてるよ」
ああ、こう言えば伊織くんはそうとしか言わない。分かっているのに、これじゃまるで赦しを乞うているだけにしかならない。
「一人だと、ちょっと困ってたからさ」
戦闘中は夕暮れ時だったのに、今はすっかり暗くなってしまっている。街の灯は遠く、たった今まで僕たちを照らしていた月明りさえ雲に隠れてしまった。伊織くんの苦笑混じりの声だけを隣から聞く。
せめて、応急処置だけでもしておきたい。飲み水として持ってきていたペットボトルを地面に置く。ここはカオスワールドではなく、調査のために事前に情報を集めていた山だ。手ごろな石をいくつか持って、立ち上がる。
「どこか行くのか?」
「水がなくなったらね。でもまず君は手当てだ」
先ほどまで見えていた景色を思い返す。風はない。それから記憶を頼りに、手元の石を投げた。
ガッと石がぶつかる音がして、それから木の葉が揺れる。落ちてくるなら、ここ。
そっと手を伸ばした先に、ふわりと葉が二枚降りてきた。
「えっ? え、今何した?」
「何もしてないよ」
抗菌と止血の効果がある葉だ。指先の感触でしか分からないけれど、これなら何度か作ったことがある。間違いようがない。
石の上に上着を脱いで被せ、ハンカチの半分を使って水で軽く洗った葉をすりつぶす。
「伊織くん、ちょっとだけ我慢できる?」
「え、わ、わ! ちょっ!」
彼をその場に押し倒して、シャツを捲り上げた。患部に極力触れないように、これも記憶を頼りに身体をなぞる。肋骨から拳一つ分くらい下のはず――ビンゴ。ペットボトルの水を流して患部を洗い、すりつぶした葉の汁を染み込ませたハンカチを当てた。
「あ、あー、手当て……」
「薬になる花木、調べておいてよかったよ」
伊織くんが少し気まずそうな声でさんきゅ、と続けた。
「ちょっと遠いけど痛み止めになる薬用植物もあるから、落ち着いたら僕が取ってくるね」
「ここにいて」
「すぐには行かないよ」
「このくらい大丈夫。だから、おれの隣に居て」
数歩先も見えないようなこんな暗闇の中で弱っちい僕を一人で歩かせたらどうなるか、を考えての発言だろう。
ここまでの経緯を思えば信用がないのも当然だ。
「ほんとに5分もかからないよ?」
具体的には、おそらくここから十五秒くらい歩けば先ほどのように投擲で採取できる距離になるだろう。
「だったら、おれも行く」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
どうしたって一人にはさせてもらえないらしい。伊織くんと一緒だと咄嗟に何も考えられなくなるのは、今後の改善事項だな。
きっと落ちそうになったのが他の誰かだったら僕は追いかけようとはしなかった。戦闘員が撤退するのを待って、落下地点を確認して、レオンに連絡を取っただろう。であるならば、僕は伊織くんに対してもそうあるべきだ。
伊織くんの手が、僕の左手首を掴んだ。
「心配してくれてありがとう。でもさすがに転んだりしないよ」
「いや……」
彼が珍しく口ごもる。それから、手が離れた。
「そう、だな。……なんかぜんぜん迷いなく歩いてるけど、足元見えてるのか?」
「夜目は一般人程度しか。覚えてるだけだよ」
「え、落っこちて気絶して、目が覚めたらもう暗かっただろ?」
「でもほら、月明りが出てたじゃない」
数秒、伊織くんが沈黙する。目的地に到着だ。また屈みこんで手ごろな石を拾い上げ、聴覚を集中させながら投げた。
ゴロっと岩壁の一部が剥げる音がする。記憶の通りなら落下地点には飛び出た平らな岩があった。あれは僕らには落ちてこない。
岩同士がぶつかって、砕けた。ぱらぱらと一緒に舞う砂粒を浴びながら、ここまでは考えてなかったなあ、と肩をすくめた。帰ったらお風呂だ。
「あ……」
青い月明りが、再び雲間から差し込む。伊織くんが小さく声を漏らした。
僕の手のひらにはちょうど先ほどと同じように薬になる花が落ちてきたところで、計算の通りに――砂粒は考慮しないものとする。あれは失敗じゃない、断じて――目的の花が手に入ったことに笑みを浮かべる。
「これは茎を食べるのがよくてね、まだ水残ってるから一応洗って」
振り返ろうとして、背中から抱きしめられる。
「伊織くん? どうしたの?」
「……どうしてかなあ」
「寒い? ごめんね、さっき濡らしちゃったもんね」
「そうじゃなくて。たぶん、きれいで」
話が噛み合わない。多少なり彼の役に立てるようになるには、こういうときにも分かり合える以心伝心的なスキルも必要なんだろう。……そういうのは正直、僕の役回りではないような気もするけれど。
「夜がドレスみたいだ」
僕褒められてるのかな、これは。
「もう少しだけ、待っててくれ。もっとちゃんと……きみを抱えられるくらいに、強くなるから」
腕っぷしの強さの話じゃなさそうだ。少し考えて、胸の下に回された彼の腕に触れる。
「……月が出ている間に、行こうか」
「ああ」
この夜闇が僕を包み込むドレスのようだと彼がいうなら、きっとそうなのだろう。光を呑み込みすべてを覆い隠す黒は、僕にとっては救いの色でもあった。
それでも、彼は「ここ」にいるべきではない。
何度だって彼を光のもとへ帰すのだ。何があっても。
いつかその光で、僕自身が灰になるのだとしても。